カラヤンのマーラーについて

クラシックジャーナル041「マーラーを究める」を読んでいて思うこと。

クラシックジャーナル〈041〉マーラーを究める。

クラシックジャーナル〈041〉マーラーを究める。

カラヤンマーラーはかつて評価が低かったが、この雑誌の評者たちも高い評価をしている。

カラヤンマーラーの録音をリリースしていた当時、確かに評価が低かった。たとえば、柴田南雄の新書(今は文庫みたいですが)でも評価は悪かったし、当時出ていた青土社の音楽の手帖 マーラーでも評価はよくなかったと思う(手元に資料がないので)。

グスタフ・マーラー――現代音楽への道 (岩波現代文庫)

グスタフ・マーラー――現代音楽への道 (岩波現代文庫)

柴田南雄さんの評価の視点は時代のスタイルから見ている面があって、カラヤンは所謂ノイエザッハリッヒカイトの世代としてみなしていたと思う。
 当時メンゲルベルクフルトヴェングラーコルトー、山ごもり前のルビンシュタインのような表現主義的な時代に対し、世代的には古くてもトスカニーニ、そしてカール・ベームバックハウスホロヴィッツのような人たちをザッハリッヒ的古典主義的世代として位置づけ、カラヤンはそのザッハリッヒ的世代のど真ん中なわけで、その即物的表現がそろそろ次の新ロマン主義的表現に変わりつつあると考えていたのだと思う。新しいロマンチックな表現のマーラーが世代的には古いがバーンスタイン、そしてテンシュテットレヴァインアバド、メータ、小澤たちの表現と考えていたのだと思う。カラヤンは古い世代の表現として批判されていたような気がする。
 でも今から見れば、その視点はないわけで同列に評価すればカラヤンの録音の再評価がされるのは必然なのだろう。当時クーベリックバーンスタインブラームス交響曲全集がほぼ同時期に出てもバーンスタインが高い評価をされるのに対し、クーベリックの評価は低かったりした。